文法の疑問に答えるイタリア語ビデオ講座をアップしました。
第一回は Alloraの使い方
第二回は 命令法の作り方
第三回は 前置詞a と in の使い分け
です。尚このシリーズでは、イタリア語の文法に対する質問を受けてそれをビデオで回答することも行っております。
イタリア語ビデオ講座とイタリア語イディオムビデオ辞典とともに、ご利用ください。このビデオ講座を見さえすれば、イタリア語がすべて学べるように、というのがこのビデオ講座の目的です。すでに多くの方に好評をいただいているこの講座をぜひお試しください。
www.kudanacademy.com/blog/videoitaliano
トスカナ地方の発音の特徴に、Ca(Ka) Chi(Ki) Cu(Ku) Che(Ke) Co(Ko) つまり日本語読みではカキクケコがほとんどハヒフヘホになると言うのがある。厳密に言うと、ハヒフヘホと言うよりも、も少し喉の奥から発生するハーと言う音になるのだが。
昔若いころにフィレンツエへ行って、そこの若者たちと友達になる。私が日本人だと分かると、すぐにジャマー、ズズヒ、ハワザヒと言って近寄って来る。最初は何を言っているのか全く分からないのだが、オンダーが出て初めて、ああこれはHONDA(ホンダ)のことを言っていると分かる。Hは発音しないですからね。そうすると、ジャマーは、YAMAHA(ヤマハ)かなと。YAはジャと発音する人が多い。若者は、皆バイクレースに夢中だから、日本のバイクの名前を知っていて、それを言いながら近づいてくるわけです。そうするとズズヒはSUZUKI。最初のSは濁ることが多い。ハワザヒは大分原音とは遠くなるが、KAWASAKIとなる。KA=ハ、SA=ザ、KI=ヒである。
知り合いの貿易代理店の社長の娘が、Federica(フェデリーカ)と言ったが、これは勿論フェデリーハとなる。日本の女性の名前の最後の子はホとなる。クミコは「フミホ」、ヨウコは「ジョウホ」、イクコは「イフホ」である。コカ・コーラ(Coca Cola)は、ホハホーラとなる。嘘だと思ったら、フィレンツィエへ行って、ホハホーラと注文してみてください。間違いなくCoca Colaが出て来ますよ。
英語で「チ」はChi, 「チェ」はche だが、これはイタリア語ではそれぞれ「キ」、「ケ」と読む。Giは英語は「ギ」だが、イタリア語では「ジ」と読む。HITACHI(日立)はイタリアでは「イタキ」と読まれます。杉山さん(Sugiyama)は「スジヤマ」である。
日本語の表現や、日本人が感じることとイタリア語が似ているというものがあります。例えば、chiacchierare ”キアッキエラーレ”は、ペチャペチャおしゃべりをする、という意味です。私は「キャッキャッと言う」と覚えています。coccolare ”コッコラーレ”は可愛がるという意味です。coccolo-coccoli-coccola-coccoliamo 何となく可愛がると言う気がしませんか? accarezzare ”アッカレッザーレ”は、「なでる」「愛撫する」という意味。これも昔意味を知らなかった折、ある犬を連れたイタリア人男性が、寄って来た女の子にAccarezzalo! と言っていて、言葉の雰囲気から「なでていいよ」という意味だとピンときました。bocciare“ボッチャーレ”は、オリンピックの種目にボッチャがあり、それと同じですが、動詞として使うと、「試験に落ちる」とか「車が衝突する」の意味があります。なとなく分かりますね。まあ、こういう音だけではなく、覚えやすい単語には外来語がらみもあります。例えば、nippomaniaco 、nippo(n)が入っていますから、日本と関係があります。「日本マニア=日本ファン」の意味です。alcolizzarsi は動詞です。意味は「酔っぱらう」です。アルコールが入っていますから。ubriacarsi という言葉が出てこない時は、こちらが楽ですね。次の単語はいかがでしょう。sushiare。勿論スラングであり、最近の言葉ですね。「お寿司を食べに行く」という意味です。Suchiamo? 「お寿司食べに行こうか?」という風に使います。こういう単語の作り方では、日本も負けてはいませんね。ちょっと古い言葉では「エガワル」なんていうのがありましたね。若い人は分からないでしょうが、昔「江川選手」がドラフトで阪神に行くことになったのに、突然野球協約の裏をかいて巨人に行くことになったため、なにがなんでも自分がやりたいことをやることを「エガワル」と言いました。逆に最近の若者の省略したカタカナ言葉はどういう意味なのかおじさんはさっぱりわかりませんが。
Stramilanoというマラソン大会がミラノで毎年開かれています。私は過去6回参加しています。ほとんどが1992年からの駐在時代の5年間ですが、2016年にも久しぶりに参加しました。確かハーフのコースと10kmのコースがあり(5kmもあるようだ)ハーフは真剣に走る大会のようですが、10kmはまさにイタリアそのものの大会であるという感じ。2016年の大会は参加者が62,000人と東京マラソンをはるかに凌ぎますが、多分10kmのコースに50,000人くらい参加しているのではないかと思われます。何故イタリアそのものの大会か?というと、このレースは、勿論100人か200人くらいは真剣に順位を競って走っていますが、残りはお祭りです。
まず、2016年の大会から言うと、スタートの合図(が聞こえたかどうかも定かでないが、定刻がその時間だとすると)から、私たち(このレースには日本から九段アカデミーの受講生4人と共に参加)がスタートするまでに30分以上はかかったでしょう。それまで全く前の方が動かなかったくらい、大勢がDuomo広場とその前の通りにひしめいていた。日本のマラソン大会でも号砲から出発まで10分程かかる大会に出たことはあるが、30分はない。つまり、10㎞レースだと速い人はもうゴールに着いているのだ。日本だと早く走りたいので、後ろから押す感じがあるが、イタリアでは人を押すことはないので、余計時間がかかるのだろう。イタリア人は決して道路を走ったり、エスカレーターを歩いて登ったりしませんから。
そして、このマラソン大会は最初は皆少しは走っているが、1㎞あたりからは、皆歩く。話しながら歩く。つまり、5万人が話をしながら、10㎞を歩いている、そういうレースです。私はこれを見て、世界最大の歩くディスカッション大会だと呼んでいる。勿論時々走ったりはしているのだが、、。途中に給水所があるが、ここは給水所というよりも、お菓子や果物、パンなどが置いてある。皆ここで休憩するが、そのあとは三々五々という感じで、帰宅するが多くいます。いや、恐らく6~7割くらいはゴールまで行きます。ゴールへ行くとメダルを貰えますから。しかし、3~4割の人は、適当に走ったら(歩いたら)帰宅します。将に市民大会を地で行っている感じです。
もし、興味があれば是非参加してみてください。天気が良ければ、ミラノの旧市街の車道をぐるっと歩けます。Duomoから始まって、Porta Veneziaを通りNaviglioのそばを通り、Sempione公園を通ってその中にある競技場までのコース。ミラノ市内観光が出来ますよ。尚、Straというのは、「例外的な」「異常な」「~を越えて」と言った意味を持つので、Stramilanoは「ミラノを越える」という意味なんでしょうね。straを使った言葉には、straordinario 日常を越えた=並外れた=特別の、straniero 外国の、外国人などの単語があります。
誰とでも仲良くなれればこれに越したことはないですね。世の中には色々な人がいますから、自分がそう思っていてもそうならないことも多いんじゃないでしょうか。善意の言葉や行動を悪意に取られて、しょんぼりした経験は誰でもある事かも知れません。意外と単純な言葉だけで、そういう事も起こりえます。日本語でもそうですが、皮肉的な表現というのはありますね。「おめでたい人」(事実を知らないうぶな人)、「ごちそうさま」(楽しそうな話を聞かされたあと、皮肉的に)、「いい値段」(高い)、「お世話になっている」(厄介をかけていることを皮肉的に)、「かわいがる」(いじめる)など状況次第で意味が反対になることもありますね。
以前に、あるイギリスのご婦人と会う約束があったが、前日に電話がかかってきて、「Would you like to postpone the appointment?」と聞いてきた。「アポを延期したいですか?」という意味である。これは真意が分からないと、「いいえ、大丈夫ですよ」と答えたいところだが、これは「延期して欲しい」の意味だと気づいたのは、一旦「大丈夫」だと答えた後である。こういう表現が丁寧なのかどうか分からないし、イギリスではご婦人はあくまで相手(この場合紳士であるかどうかは別にして男性である)に責任を被せるような言い方をするのかも知れない。これが紳士の国の作法だとすると。
Thank you! とかGrazie! という言葉も、皮肉的に使う事が多い表現だ。「余計なお世話だ!」のような意味になるだろうか。belloなどは注意をせねばならない。Bella figura!は、「美しい容姿」などではない。「恥ずかしいことを!」Scemo!と同じような意味だ。また皮肉的に言う事も多いので、言葉は状況で判断することが重要になる。
もうひとつの間違いのもとは、発音に寄ることが多い。もう50年も前の話だが、Firenzeの郵便局で船便で荷物を送りたいという日本人女性について行ったことがある。郵便局で、Via mare (船便)でというところを、ただ、マーレ、マーレというものだから、係員がbene, bene(大丈夫)だと言っている。彼女の発音は、maleだったわけですね。これは説明不要。私自身の間違いも一つ上げると、Pisaの駅のinformazioniにて、斜塔はどこですか?と聞いた時の事。係員の答えは「駅を出てすぐ右だ」とのこと。わたしが、「歩いても行けますか?」と聞いたら、さすがにイタリア人ですね、「ご希望ならタクシーでもどうぞ?」と言う。私は、歩いても行けるんだなと思って、外へ出て、そこで気づいたわけですね。塔はtorreですが、私は巻き舌が出来ないので、toiletに聞こえていたという訳です。もう一度informazioniに戻って、事情を話して、大笑いになったことは言うまでもありません。
霧はnebbiaという。これも「読んで楽しいイタリア語」に書いた話だが、霧の話はどうしてもまた書いておきたい。地球温暖化と共に、霧が出る回数もイタリアでは減ってきたのかも知れません。私がイタリアで経験した、1990年頃も段々暖かくなっていて、霧も少し減る傾向にありましたからね。ミラノの霧がどれくらい凄いかと言うと、はっきり言って、夜中に濃い霧が出たときは全く見えません。視界は、いいところ10mがギリギリだろうか。いや10mもないかも知れない。車なら、時速20㎞で1秒間に5.5m動くので、10mの視界だと障害物に気付いても殆どぶつかる。まあ、これほど視界が悪い時には運転しない方が良いが、通常視界が20mくらいあれば皆運転する。時速20㎞なら、この場合は多分止まれるだろうが、問題は高速道路である。
視界が20mで高速道路に出ると、車はビュンビュン飛ばしている。時速100㎞出すのだ。第一の問題は、高速の一般通行車線に入るとき、一気に80㎞くらいまではスピードを上げて、走行車線に入る。後ろから車が来ていたら、取り敢えず追い越させて、追い越された後は、この車のテールランプを見て後をつける。これが高速の運転方法です。テールランプは視界20mの2~3倍の距離からも微かには見える。だから、これの後をついていくのだ。ある時、前の車が意地悪をしたことがあった。後をつけて来られるのが嫌なんだろうか、テールランプを突然消した。全く見えなくなる。ここでスピートを落とすと、これが一番危ない。イタリアの高速道路は基本的に直線なので、とにかく真っすぐ時速100㎞で進むしかない。但し、tangenzialeと呼ぶ首都の周りの高速道路は、真っすぐではないが。いずれにせよ、東京の首都高ほど狭くかつ曲がってはいないので、その分は安全である。
高速を降りるときが次の問題である。看板が見えない。2車線の場合走行車線を走っていても、100㎞で走っていれば、看板が見えたときには通り越している。大方そろそろかなと予想をつけて、ちょっと前からスピードは少し落とす。7~80㎞くらいに。見えたら、すぐに降りる準備である。降りる寸前に看板や、出口が見えるはずなので、見えたらすぐにハンドルを切って降りることになる。
三番目の問題は、高速を出て一般道路に出るときである。視界が20mだと言っても、霧の濃さは風などによって変わる。5mほどの視界になることもあれば、40mくらいに広がっていることもある。安全なのは、視界が広がるのを待って、ある程度見えたときに渡るのが良いのだが、真夜中などでは、視界が全く変わらないこともある。5m~10mくらいしかない時もあるわけで、その時は夜中なので車も少ないだろうと見当をつけて、「えいやっと」渡るしかない。これは何度か経験したが、一瞬は命を懸ける感じだ。一般道路は、霧が濃い時はそんなにスピードは出さないで走るので、先導車がなくともまあ何とか運転は出来る。ただ道は真っすぐとは限らないので、かなり前のめりになってハンドルをしっかり握って良く周りを見ながら走る事にはなるが。
事故はどうかと言うと、当然起きる。ただ、小さな事故は報告されないのかどうかあまり知らないが、100台レベルの玉突き事故が高速ではタマに起きている。まあ、あのスピードで前の車が事故にあったら、後の車はどうしようもないだろうという予測はつきます。イタリアで霧が多いのは、ミラノートリノそしてミラノーベネチア間です。ボローニャより南は多分あまり発生しないと思います。従い、当然ミラノ空港はしばしば閉鎖されます。ただ、霧の中でも管制誘導により完成出来るシステムはあるそうですから、今は当時ほどは混乱が生じてないかも知れませんが。
日本ではミラノに比べれば霧が発生したところで大したことはないが、場所や時間によっては濃い霧に出会う事もあるでしょうね。自分は慣れていても他の人が慣れていない場所では、止まった方が賢明だと思います。霧ではないが、ある時ミラノで大雪が降りました。ミラノは結構寒いですがあまり雪は降らないので、チェーンをつけたりしない。それで、事故が多発したことがあります。慣れない状況に接したら、あまり無理をしない事ですね。ロンドンの霧やある説によれば、霧ではなくスモッグだそうですが、ミラノは確実に霧でした。クリスマスの頃の霧は、幻想的で霧の濃淡によって見えたり見えなかったりするのは、意外と面白かったものです。
もう大分昔の話になりましたが、ミラノに住んでいたことで懐かしい事の一つは、間違いなくこの「霧」ですね。ちなみに、英語ではfogと言いますが、イタリア語は全く違います。Foggiaというのは、町の名前です。英語とイタリア語は単語が70%共通だと言いますが、それは比較的難しい単語の事で、簡単な単語は全く違います。rain/pioggia, river/fiume, water/acqua, house/casa など共通ではありません。だから、イタリア人(やフランス人)は、30%の単語だけを勉強すればいいのですよ。
現在ワールドカップ2022に向けてのアジア予選が行われています。この項を書いている現在日本は6試合で4勝2敗、グループBで2位につけており、なんとか最終予選への突破圏内には入っています。これまでの6試合を見ると、最初から順に 0-1,1-0,0-1,2-1,1-0,1-0と6試合での得点がわずか5点、全ての試合が一点差で、得点を入れない代わりに、入れられてもいない。こういうサッカーの試合のことをCATENACCIOと言います。catenaとは鎖、チェーンのことで、catenaccioはドアの掛金などのこと。転じて、「守りの試合」「守備固め」の勝ち方や、作戦のことを言います。日本の試合を見てください。得点は0-1-0-2-1-1ですから、まさしくcatenaccioです。見ていてはハラハラドキドキ、イライラする試合ですね。実は嘗てのイタリアがそうでした。いや、イタリアは今でもcatenaccioが主流かも知れません。守りのチームがイタリアの代名詞のようなものです。これで、ワールドカップ優勝4回と、一位ブラジルの5回に続く優勝回数を誇ります(優勝4回にはドイツも入ります)。
日本もcatenaccio国になったのでしょうか?どちらかと言うと、得点力がない分を守りでしのいでいるという感じですから、得点力が欲しいというところでしょうね。ただ、イタリア人も言いますが、catenaccioは面白くないことは確かですね。先日、高校サッカーの地方の決勝戦をテレビで見ました。どちらも強豪校で、全国大会で優勝してもおかしくないチームです。この試合は実に面白かったですね。攻撃につぐ攻撃です。ボールを戻して、ぐるぐる回して、相手の隙をついて一気に攻める積りで逆にパスミスでボールを取られるようなことはしません。こういう攻撃的な試合のことは、champagneと言います。シャンパンのことですが、多分シャンパンでも飲んで騒いでいるような派手な試合という意味だと思いますが。
そういえば、1989年まだあまりサッカーに興味がなかった私はイタリアに住むことになり、テレビをつけて何気なくサッカーを見ていて、その面白さに惹かれました。日本のサッカーを見ていて面白くなかったのは、はっきり言ってそのスピードにありました。当時日本はJリーグを作ろうとしていた時期でまだプロのサッカーチームはありませんでした(Jリーグは1991年発足)。つまり、全くスピードが違ったのです。しかも当時はあのマラドーナがナポリで大活躍していた時期です。ナポリの試合はほとんど彼一人で勝っているみたいで、その頃優勝したのは、誰がなんと言おうとマラドーナ一人の力だ(とは言わないでしょうが)という感じでした。
最近大谷選手の活躍がすごいですが、ベーブルースを比較して、数字だけ見てベーブルースを越えるとか言う人がいますが、その人がベーブルースを実際に見てそう言っているのであれば納得ですが、数字だけでは表せないと思いますね。その人のすごさは実際に見てみないと分からない。そういう意味では、マラドーナは私はテレビでしか見ていないけれど、凄かった。ペレについては試合を見てないので、その凄さは分からないですが。今では、日本も世界ランク28位まで上がっていますから、相当個人のレベルも上がったのでしょうが、当時は動きが遅かったのではないかと思います。
イタリアの「カテナッチョ」については、有名で色々研究している人もいるようなので、興味のある方は検索して調べてみてください。ワールドカップ予選はいずれにしろあと4試合、catenaccioであろうと、champagneであろうと、勝って欲しいと思いますね。catenaccioでは、勝てないちょ!なんてダジャレが聞こえてくるような気もしますが、、、。
外国語を勉強するときに、日本語しか知らない場合にはある種の感覚を身につける必要がある。その一つが、イタリア語の場合は性と数である。つまり、単語にはすべて性別があり、単数と複数では表現が異なるということだ。英語には複数にはSをつけるという決まりがあるが、単語に性別はない。日本語には勿論どちらもない。複数には「たち」「ども」「等」などをつけるが、これも人称代名詞「私たち」「あなたたち」「彼ら」「私ども」などは必須だが、ものやことには普通はつけない。本は本だし、本たちとは言わない。また人称代名詞の複数形は英語でもイタリア語でも単語自体が変わり、Sをつけたり語尾を変えたりするわけではないので、「人称代名詞以外の名詞は単数と複数を語尾を変化させて区別する」と言えるだろう。
イタリア語を勉強した方はご存じだろうが、名詞の性については結構厄介である。基本的に語尾がoで終われば男性名詞、語尾がaで終われば女性名詞であるが、eで終わる場合は男性名詞か女性名詞かを知っていなければならない。また男性名詞の複数はiで終り、女性名詞の複数はeで終わる。イタリア語は基本的に母音で終わるが、uで終わる単語は少ない。勿論例外も沢山ある。取り敢えず、単語の性別を覚えたとしても、文章にする場合に厄介な問題がある。形容詞をつける場合、形容詞の語尾が名詞の性と数に一致しなければならない。例えば、nuovo(新しい)という形容詞を使う場合、vestito nuovo(新しい服)、vestiti nuovi(新しい複数の服)、cravatta nuova(新しいネクタイ)、cravatte nuove(新しい複数のネクタイ)となる。イタリア語(ラテン系言語)は、形容詞は名詞の後について修飾するが、それは先に性数の主体となる名詞が出ないと、形容詞がつけられないからである。イタリア語やフランス語の形容詞が名詞の後に来るのを不思議がる人もいるかと思うが、これはこれでうまく出来ているのだ。
しかし、それでも厄介なことがある。指示代名詞のように、一番先に使うQuesto(これ)やQuello(あれ)の場合は、まず何を言おうとしているのか頭で考えて、名詞の前に名詞に合わせて変化させて使わねばならない。これが、女性名詞で複数形なら、Questeと先に言ってから、sono le mie scarpe. のように続けねばならない。意味は「これら(これ)は私の靴である。」尚、この例であげたように、所有形容詞(私の、あなたの、など)や指示形容詞(あの、この)などは形容詞であっても名詞の前に付けるし、形容詞の中でも習慣的に名詞の前に付けることが多いものもある(bello, buonoなど)ので、頭の中は性数でフル回転していなければならない。
イタリア語を学ぶ場合には、この感覚が必要であると思うのである。筆者自身についていえば、3年から5年くらいかかっただろうか。つまり、あらゆる名詞を性別で考えるようになるのに。多分複数の方は、英語で多少は慣れていたかも知れないが、、、。多分一番厄介なのは、代名詞である。lo la li le の直接目的語になる代名詞を使う場合は、基本的にそれが、男性か女性か、単数か複数か、頭の中で理解していないと使えない。大変面倒くさいと思うが、これもある程度は慣れる。ただ、日本語で話している頭を多分ちょっとだけイタリア語モードに変える必要はあるのではないかと思う。大分前にイタリアでイタリア在住20年くらいでイタリア人と結婚している人が、日本語で話しながらも何かの拍子で、”Eccolo!”と仰った。これですね。やはり、頭がイタリアモードでさっと出て来るっていうのは、と思いましたね。Eccolo, Eccola, Eccoli, Eccole.もちろん全てありますからね。Eccomi!もあります。
日本語にはあるが英語やイタリア語にはない、英語やイタリア語にはあるが日本語にはない、といった言葉がある。また言葉はあっても、意味が違うこともある。こういうのは覚えにくい単語や表現の一つだろう。まず、意味が違うものを上げると、例えば「おかず」や「主食」は、単語はあっても意味が少し違う。日本語では、肉や魚はおかずで、主食はご飯、つまり米である。しかし、英語やイタリア語のmain dish(=主食)は、決してrice/risoではなく、肉や魚になる。
orange(arancia)色といえば、日本ではオレンジの色だが、三毛猫の茶色のことを海外ではオレンジ色だという事がある。茶色の猫は、orange catである。まあ、ただ日本語でも茶色とは茶の色という意味だろうが、日本茶はグリーンであるから、この茶色も不思議だ。ちなみに中国語では茶色とは言わない(また、外国の茶は紅茶だから、大丈夫かも知れないが)。日本では、交通信号の青を青というが、あれはどう見てもグリーンだ。ただ、緑とかいて「あお」と読ませたりもするので、この色については、相当許容範囲が広い。
日本にあってイタリア語にないものの一つが、孫や甥姪を表す言葉である。いや正確にいえば、イタリア語にもnipoteという言葉がある。しかし、孫も甥も姪も全部nipoteひとつである。つまり、孫と甥姪の区別がない。他にも会話に限って言うと、兄と弟や姉と妹の区別もあまりない。普通会話の時には、my sister とかmio fratello のように younger sisterとか fratello maggiore などと特に区別するとき以外は、あまり言わない。日本語なら私の兄弟が~というようなものだろう。実際日本語でも姉妹と書いて「きょうだい」とも読ませるので、この場合は年齢の上下も性別もなく話すことになるので、英語やイタリア語よりももっとあいまいかも知れない。
life(イタリア語vita)もそうである。life もvitaも「生活」「人生」「一生」という意味がある。しかし日本人にとって、「生活」と「人生」は違うものである。しかし、欧米人にとっては、同じものなのだろうか、一つの単語しかない。
こういうことを調べると面白いが、実はキリがない。日本人が外国語を勉強するときに、一番問題になるのは単語であることは、何度も述べて来た。まず学習語彙があまりにも少なすぎる事。そして、一つの単語を覚えても、その意味を一つしか知らないのでは、知ったことにならないことが多い。一つだけ例を挙げると、イタリア語にmacchinaという単語がある。英語では、machineであり、意味は「機械」である。しかし、macchinaには他の意味もある。①自動車②タイプライター③機構 macchina dello Stato=国家機構 ④陰謀⑤舞台装置⑥(詩)の構成⑦自動車レースなどの車間距離などである(以上小学館の辞書より)これ以外にもまだ意味はあるが省略した。つまり、もともと「機械」であるmacchinaに「自動車」の意味があるが、日本語には機械=自動車はない。これが語学学習を難しくしているともいえる。まあ、ただ同じことは逆(日本語の訳)にもあり得るわけで、外国人が日本語を学習する際の難しさとも共通する。従い、これは日本人だけの問題ではない。ただし、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、その他欧米言語には共通点が多いので、彼らが相互に言語を学習するには大きなアドバンテージがある。machine(英語)にも、上記にあげたmacchina(イタリア語)全ての意味のの半分くらいは共通するようだ。
nipoteに話題を戻すと、E` mio nipote. と言っても、それは孫か甥かはわからない。イタリアは大家族主義なので、一家が集まるとする。親子3代が集まるとする(一代、二代、三代と呼ぶ)と、一代から見れば三代はみなnipote(孫)である。二代から見て、兄弟の子供が甥姪になるが、一代から見れば同じ孫。そういうことから、孫も甥姪もnipoteになった(そうである)。ちなみに、ひ孫もその下の玄孫(やしゃご)も一様にpronipoteというらしい。かくして、一家が4代、5代と集まれば、nipoteで一杯になる。
このコラムを書く理由は次のようなものである。
イタリア語に隠された歴史や背景、それに関する私個人の考察をまとめるため。
イタリア語を学習する人に、もっと興味を持ってもらうため。
自分が50年以上付き合って来たイタリアとイタリア語の話が何か参考になればと思って。
単語は語学学習では、実は大変重要。特に日本人には。だから、少しでも語彙を増やして貰いたいと思い。
まあ、ちょっと考えてみましたが(3分ほどでここまで書いてきたので大して考えたわけではない)なかなか一言では難しいので、まとまりなく何行も書いてしまいました。そうかもしれないし、そうでないかも知れない。まあ、色々仮定してみたわけです。
今日の話題はこの「仮定」です。イタリア人は、良く仮定します。多分日本人よりも多く物事を仮定します。その時にIPOTESIという言葉を使います。意味は「仮定」「仮説」です。ipotesiは、日本語で「こうしたらどうだろう?」とか「もし~したとしたら」のような、例え話に使う言葉です。ビジネスの場でも良くこの言葉が出て来ました。「それを買ったとして、私にどういう得があるのか」など。私はイタリアとのビジネスでは、買う方の立場だったので、「価格を貴方の希望値にしたとして(したと仮定して)、一体どれくらいの数量をお買いになる積りですか?」のような会話だったかも知れない。それほど頻繁に使われるわけでもないが、日本語ではなかなか表現しない言い方なので、記憶に残っている。是非使って見て下さい。イタリア的表現を良くご存知ですね、と言われるかも知れません。
ipotesiという言葉の代わりに、supporre(仮定する=動詞)を使う事も出来ます。Suppongo che + 接続法。~だと私は仮定します=~のようだね。ipotesiと共に、Suppongo, per ipotesi, che ~。とも言います。大体同じような意味です。
尚、アクセントは「イポーテジ」のように、poの上にアクセントがあります。
さて、これから先は「読んで楽しいイタリア語」に書いた、ipotesiの話です。
「私は、日本人は中国語、イタリア語、英語の3つのライン上で外国語を学んだ方が良いというipotesiを上げる。日本語は中国から伝わった言語に、日本独特のひらがなを加え、作られていった。しかし、儒教の教えを主とした教理が根強く、明治維新まで漢語の学習は怠らなかった。江戸時代の鎖国の結果、ヨーロッパはオランダからのみ文化の流入があり、オランダ語の学習も進んだが、当時訳された医学書などの文献は、オランダ語からまず漢文に訳されたのだ。
日本語は中国語と、文字そして音がやや似ているが、構文が異なるので、漢文にする方が楽だったのだろう。中国語と漢文は大分異なるらしいが、構文については基本が変わらないので、中国語が出来なくとも漢文が出来れば、単語を調べてオランダ語の本は読めた。幕末の知識人みな漢語が出来たので、明治になってこれからは漢文ではなく英語だという時代になっても、単語さえ分かれば本は読めた。福沢諭吉翁などが海外へ行って本を買いあさり、急いで日英対訳の辞書を作ったのも、単語さえ当て嵌めていけば文章が読めたからである。恐らく発音は相当ひどかっただろうし、聞き取りも出来なかっただろう。が、自分の意思を伝えることはしたのではないだろうか。
言語の基本は、相手に言いたいことを伝えることなのであるから、これが一番重要なのだ。翻って、今日日本では漢文の学習は殆どない、そして突然日本語から英語である。この2者は日本語も含めた4つの言語ラインの両極にあるのだ。しかも学習方法が英語→日本語という方向性が主流(大多数)である。」
日本語と中国語は文字が同じで音もやや似ているところがある(実際には中国語の発音はとても難しい)。日本語とイタリア語は、単語が母音で終わり、且つ音素の数が近いため聞き取ることが出来る。これに対し、英語は、文字も、音も、構文も、そして単語も全て違うのであるから、日本語から英語を学ぶのは、一足飛びにピアノならラフマニノフを弾いたり、体操ならH難度を、スケートなら4回転を、もっと近い話題で言うとプログラミング言語ならHTMLもCSSもやらないで、JAVAやPYTHONやもっと難しいものを学ぶようなものだ。
ということで、「日本人はまず中国語とイタリア語を学んでから英語を学ぶのはどうだろう?」という仮説を上げておきます。
ただ、最近は私は英語の学習方法としては、まず文法(基本文法と構文)を学んだら、次は単語の学習をするべきだという仮説に立っている。聞き取りや会話は慣れれば出来る。それよりも先に、単語を知らないと、言っていることが分からないではないか。勿論単語だけでは分からないが、文法と構文を理解してれば、単語が分かれば意味は大体わかるものだからである。日本人の英語の語彙力3000とか5000では、100%理解する為の15%~25%に過ぎず、これではついていけないのも無理はない、と思うからです。