九段アカデミーの日本と中国

九段アカデミーの日本と中国

私(KLA主宰)の中国との関わり(ひとりごと):興味のある方お読みいただければ幸いです。

「日中友好」は常に念頭に。どんな軋轢があろうとも、例え一時的に意地を通そうとも。
私の手元に、長谷川寛著1966年の白水社出版「中国語会話」というコンパクト会話手帳がある。ここに当時の政治機構が書いてあり、そこには実に懐かしい歴史上の人物の名前がある。
主席:劉少奇、副主席:宋慶齢、董必武、総理:周恩来、副総理:陳雲、林彪、鄧小平など(副総理は16人)。
劉少奇は1959年に毛沢東に代わって国家主席となる。毛沢東はこの時共産党主席の地位にあり、実権は毛沢東の手にあったが、形式的には国家ナンバーワンは劉少奇となっている。劉少奇はその後文化大革命で鄧小平共々批判され、非業の死を遂げる。林彪は、毛沢東の後継者と名指しされ、劉少奇失脚後に権力を掌握しようとするが、毛沢東と対立しソ連へ逃亡中に飛行機墜落事故で死亡。文化大革命では非林非孔運動で、4人組以降は反革命として批判を浴びた人である。そんな時代があったことをふとこの本が教えてくれる。
その後失脚した鄧小平が復活し指導者となり、開放政策を取り中国は大きく変わっていく。

私は、1974年当時「友好商社」と呼ばれていたC社に入社し、日中貿易の歴史を先輩諸氏に教わるとともに、1989年の天安門事件のころまで、日中貿易に携わった。歴史問題を抱えながら、民間の商社が友好とビジネスをどのようにして両立させていったのか、思い出とともに述べたい。
私が実際に中国に行ったのは1978年が最初である。広州の交易会参加だった。その頃はすでに、中国貿易のベテランが多くの友好商社に生まれており、私などはペーペーで何にも分からなかった。先輩諸氏から教えられたことは、中国を中共と、台湾を中華民国と言ってはいけない。韓国は南朝鮮と言う、などだった。商売相手の公司の人は、先生と呼びそれ以外の人は同志と呼んだ。タクシーの運転手やお店の人、レストランで注文する時も「同志」と言って係を呼ぶ。今は、小姐と言ってもいいかどうか知らないが、そういう言い方は許されなかった。

1978年にもう一度訪中した。上海へ行くのに直行便がなく、北京へパキスタン航空で行き、そこから上海へ中国民航で移動。上海は国際飯店に宿泊。当時は大体二人一部屋だったので、私は怖い課長と同室で気が落ち着く暇もなかった。外へ出、我々一行がカメラをとり出すと周りに人だかりが出来た。私たちが日本人だと分かったようだ。商談は、和平飯店の南楼(当時そう呼んでいた)で行った。12月で、底冷えのする寒さの中、暖房はない。勿論コートを着たまま机に向かいあった。

1978年に鄧小平は開放政策を取り始めた。開放政策とは、開放特区などを設けて外国貿易を盛んにすることだが、具体的には、日本から、原材料、技術、機械、そしてブランドを持って来れるということだった。つまり、それまでは繊維品に関して言えば、下着、靴下、ブラウス、パジャマ、ハンカチなどを中国から輸入していたが、中国の材料を使い、中国の技術で生産し、中国のブランドで輸出することしか認められていなかった。「中国の材料は優秀で、技術も優秀だから、それを買いなさい、いやならよしなさい」だったのだ。納期はあっても無いも同然だった。従い、納期が遅れても良い商品しか発注出来ない。そういうことでも貿易を続けてきたのは、勿論ビジネス的に成り立つ価格があったからだが、日中友好の考えが双方にあったからだ。

第二次大戦後日中貿易は民間レベルでわずかに行われていたが、政府間の取り決めは何もなかった。1958年に長崎で中国国旗が引き裂かれる事件が起きて、日中間はさらに冷え切った。LT貿易で、準政府間の取り決めが出来たのが1962年。1972年の日中国交回復までLT貿易が実質政府間の貿易取引となる。一方民間レベルでは、1961年には取引を開始しており、CはN社などとともにこの年に友好商社に指定されている。友好商社の指定がなければ中国との取引は出来なかった。友好商社の条件は、台湾との取引をしないことで、大手商社はダミー商社を使って友好商社指定を受け、取引を行っていた。C社は先輩諸氏の政治的な力もあり、中国との太いパイプがあると言われていた。

何をやるにも常に政治的な配慮、背景を抜きにしては出来ないのが当時の日中貿易だったが、私たち担当者はとにかく、真摯に、対等に、そしてビジネスライクに中国と付きあおうとしていた。上海の服装公司の科長さんは、日本人にも中国人にも慕われていた。仕事は厳しく、面立ちは温厚、常に周りに気を使い、我々下っ端にも声を掛ける。商談ではとても叶わないが、それ以外の時には若い公司の女子社員となにかケラケラと話をしている。科長は日本の会社では部長に当たるが、全く偉ぶるところがない人だった。公司の担当者も、ビジネス相手でありながら、皆友人だった。政治的な話をすることはないが、80年代も後半になってくると、だんだん世の中が変わってきたようにも思う。天安門事件のころはと、私たちも少しずうずうしくなり、彼らに事件を知っているかどうかなどを聞いたりしていた。口を濁していたが、あまり情報は入ってなかったようだった。外国からの一方的なニュースを真受けにはしない習慣がついていたかも知れない。

1978年に上述の開放政策が始まり、我々にとっては画期的だった。それまでは、謂わば安物しか作っていなかったものが、材料を持っていく、デザインを持っていく、機械を入れて技術指導を実施する、そして日本のブランドをつける商品を作ることが出来るということだった。これを日本側からは逆委託加工と言う。日本は、資源がないため、海外から原材料を仕入れる委託加工で貿易を伸ばして来た。しかし今度はこの反対をやるのだ。当時の通産省へ出向いて、貿易方式を説明し、貿易システム作りから始めた。私たちがやろうとしていたのは、逆委託加工による製品の輸入だが、通産省に申請する書類は、「逆委託加工による輸出申請書」というものが作られた。当時輸出には色々承認や許可が必要だった。特に中国に対してはカントリーリスクの観点から、決済方法が前払いか、L/C即日払いしか出来なかった。当時の中国に原材料を前払いする金はない。そこで新たな決済方法を考えて、貿易を開始した。詳しいことは本論の趣旨ではないので避けるが、当時機械を中国に輸出するのに、「延払い」も認めなかった政府が認めた決済方法だった。こうして、1979年に上海に工場をひとつ作りました。従業員約120人ほどの雇用を生み、それまで中国にはなかった製品を作ることになりました。

品質管理は技術というより、感覚の問題であった。なぜこれで駄目なのか。これを不良品だと言ったら中国では作れない。技術交流も何度も行った。私は技術者ではないが、いつも工場を視察していた。従業員は全員知っている。工場長は共産党員だから、何を言おうと最終的には党の意向が最優先となる。しかし、開放政策で私たちはビジネスをしに来ているのだ。党であろうと遠慮はいらない。ビジネスに関して言いたいことは全て言った。貿易公司が間に入って、工場長を更迭もした。揉めれば、揉めるほど私たちの関係は親密になったと思う。私たちの要求はとても厳しかったと思う。しかし、中国側のミスは許した。信頼関係があったからだ。意識的なミスやサボタージュではない。工員の質、生活環境、党の関与など考慮する外的要因は沢山あった。工場立ち上げから10年ほど私はこの仕事の担当をした。ちなみに、このプロジェクトは大成功だった。今でも続いているが、形は変え(合弁)ている。

約11年間担当した。多くの中国の人と知り合いになった。人は夫々であるが、これらの人から反日感情を感じたことはない。隠していたのかも知れないが、とにかく誰とでも政治の入らないビジネスのつきあいだったと思う。また、一般の庶民は上海でも月給が20元(これは一元が120円のころ)だと言われていた。元は1980年頃から安くなり、一元が確か30円か40円くらいまで下がったと記憶している。ホテルの外国人床屋が5元(200円)だったので、一日に2回も行ったことがある。馬鹿な話だが、何でも安かった。床屋は町へ出ると1元もしないとも聞いた。ただ、当時外国人は行けなかったのではないかと思う。基本的には、全て監視されているとも言われていた。町で人が寄ってきて物乞い(金かモノか分からぬが)をされたことが一度あるが、それを見ていた他の中国人がやって来て、その男に自転車をぶつけて、私たちから離した。

今では考えられない経験も多々ある。列車に乗ってどこかへ行くときのこと、タクシーが上海駅のプラットフォームまで入って行った。タクシーは中国の要人か外国人しか乗らない為、運転手はかなり威張っていて、結構無茶をする。1979年頃の話。当時のタクシーは「上海」という中国の車だったが、たまに使い古した「紅旗」に当たることがあった。「紅旗」は要人専用の車だが、大きいのは重量が5トンもあると言われていた。まるで装甲車だ。古い紅旗でも内装にはマホガニーなどが使われており成程高貴な感じはした。タクシーはその後、日本のトヨタや日産の高級車がどっと入ってきた。なんでこんな車をタクシーとして輸入するのか分からなかったが、そのうち日本車の数が極端に減ってきた。真偽のほどは分からないが、高級幹部の専用車になったと聞いた。民生用に輸入して、後は幹部が取り上げるのだ。そのあとはフォルクスワーゲンの合弁の車が増えてきた。1985年頃だったろうか、上海で工場を作った会社が北京に店を出しそこの社長がやってきた。アメリカ製の大型車をハイヤーして送迎に使ったが、少し出発が遅くなり、空港へ急がねばならなかった。この運転手は信号を全く無視して空港へ突っ走った。大型車に乗っているのは政府か外国の要人という感覚だったのだろうか、警察も一向にお構いなしだった。

色々なことがあったが、今となってはとても楽しい思い出ばかりだ。反日だの、日本人を侮辱するだの、そんなことは露ほどもなかった。共産党体制の中だから、自由なことは言えないことは、付き合っていればわかる。しかし、皆普通の人で、我々から見れば普通のビジネス相手であり、パートナーであり、友人だった。ただ、私たちは中国からモノを買う謂わばお客だったが、中国にモノを売る輸出担当の同僚からは、土産物を強要されたりすることはあると聞いたことがある。税関で時にやけに時間が掛かることもあった。私たちは若さの勢いで良く税関とは揉めた。しかし、決して最後まで喧嘩をするなとは、先輩諸氏から言われてはいた。彼らにもメンツがあり、権限も持っている。汚職がらみのことが増えて来たのは1980年代後半以降ではないかと思う。例えば、1980年頃は、ホテルやタクシーでお金の問題は一切なかった。85年ころから、個人タクシーが出てきて、空港から町へ行くのに価格の交渉をせねばならなくなった。だんだんややこしい中国になってきたころだ。中国国内では、税関、銀行、役所が扱いにくいと言っていた。用もないのにやってくる。仕事の邪魔だが、お金を渡さないと帰らない。昼飯を食べにくる。晩御飯の接待を受けると、相手が沢山いる。私たちの接待はだしで、関係者を同時に接待しているのだ。1990年代になったらもっとひどくなってきたそうだ。私は、1990年~95年は中国を一度も訪問していないが、96年に久しぶりに訪れて、あまりの変わりように驚いた。

1996年から再び中国とビジネスの関係が出来た。ただ、公司(国)が相手のビジネスではなく、個人企業が相手となった。最早以前の中国はなくなっていた。1978年から1989年まで中国に行った回数は約200回。これは本当の話。上海で数次ビザを発給している日本人は二人だけだと言われ、私はそのうちの一人に入っていた。しかし、1996年から2001年までの5年間には、15回も行っていないだろう。行く場所は、1989年までの9割は上海だったのに比べ、福州が増えた。また内モンゴルにも行った。私はこの第二回目の中国との付き合いで、忘れられない尊敬する中国人に出会った。ただ、この人は台湾の人で、中国で工場を経営している人だった。この人をとても尊敬する理由は他のコラムに書いているのでここで重複はさけるが、この時に私は、人が人を(もしくはある国民がある国民を)尊敬するのは、決して金ではなく更に、金を出したから良いだろうという態度を取ることが更に尊敬されない理由に十分になりえることを感じた。人道的な行為に対しては、中国人も日本人もない、皆一様に感動する。

中国の一つの問題は、反日教育だと思う。反日教育をやりながら、日中友好はないだろう。このことをある中国の親しい人に述べたら、中国が反日教育をやるのは仕方がない。日本が反中教育をやる理由はないでしょう、と。中国は周恩来氏の決断で、戦争賠償を求めないことにしたという。しかし、反日教育ではそんなことは教えないから、日本は戦争(侵略)に対する償いを未だに果たしておらず、勝手なことをやっているとなる。しかし、この人は知っている、でも日本は技術移転も含め、中国に相当の金額を援助したでしょうと。しかし、これも中国では誰も言わないから、中国国民は何も知らないと。私は、お金を出したから良いでしょう、賠償金相当額の支援をしたから良いでしょうという態度では物事は解決しないと思うが、一方日中友好条約を結んだあとで、更に反日教育をやる中国と、それを知っていながら日中友好と言い続ける日本の政治家には疑問を覚える。友好なら、反日教育は辞めさせるべきだ。なぜなら、これは一生残る。今辞めても、50年は反日思想は残るからだ。私が、日中友好と言い続けるのは、民間レベルではということ。

中国との関係は今はぎくしゃくしている。特に領土問題では解決方法が見つからない。鄧小平氏などはこの問題が解決しない事を知っていたのだろう。この問題は将来賢い人が解決するまで伸ばしましょうと言っている。確かにその方が賢いだろう。将来とは10年や20年の事を言っているのではない。恐らく100年いや1000年単位の事を言っていたのかも知れない。日本の立場は日中間に領土問題はない、だが果たして世界にそれを通用させることが出来るのか、それは政治家の役目だが、そういう言い方が通用しないならほかの方法を考えた方が良い。中国は私が行き始めたころには予想も出来ないほど国力をつけた。今や世界第二の経済国家になり、直ぐにアメリカを抜くと言われている。10億を超える国民と数パーセントでも何千万となる富裕層の力は侮れない。しかし、中国の歴史は一握りの富裕層を作り、それを国家が奪う歴史だ。中国で最も必要なのはお金ではなく、権力だった。金がなくとも権力があれば何でも出来たからだ。果たして現在の富裕層や民間会社を太るだけ太らせてそののちに国家がそれをすべて収奪するようなことが起きるのだろうか。歴史は繰り返すと言う。予測は出来ないが、共産主義という西欧諸国とは別の土俵の上にある中国がどうなるのかは、実は我々の物差しでは測れない気がする。

私は現在の中国と日本を含む民主主義国家(と仮に呼ぶ)の議論は基本的に噛み合わないと思っている。 ある評論家が言っていたが、アジアは日本以外殆どの国が非民主国家であると。国と国の対立は、主義思想が違えば解決をするのは容易ではない。しかし、人は違うのではないか。環境や知識、事実の認識などによって考え方が違うことはあるが、人間同士は解りあえるものではないかと信じている。だから、日中友好なのだ。言い換えれば日中人民友好なのだ。そして日中人民友好は、必ずあり得る。この姿勢を貫きたいと思う。