「読んで楽しいイタリア語の話」は、イタリア語の単語230語ほどに関わる歴史、エピソード、個人的なエピソードなどを読み物としたものです。ここではその番外編として、エピソードの追加や裏話、他の単語などもあげて、一度読んだら忘れない単語をご紹介したいと思います。
これは本の冒頭に上げたものです。この本の発想がこの単語から始まりましたので、ここでもこの単語から始めます。イタリア語の発音は「ツルッコ」ですが、英語ではtrickがこれにあたります。そして、このtruccoの意味が、「お化粧」だということで、笑って頂ければと思って最初に上げました。英語のtrickは日本語のトリックと大体同じ意味で、お化粧という意味はないようです。またラテン語系統のフランス語で「お化粧する、お化粧」は、maquiller, maquillage、同じくスペイン語ではmaquillar, maquillajeとフランス語と同じ系統の単語を使うようで、イタリア語とは違うようです。
そういえば、スペインにTRUCCOというファッションブランドがあります。1995年頃にファッションの仕事をしていて、Madridにある同社を訪ねたことがあるのを思い出しました。非常に感性の高い商品だったことを覚えています。ファッションに詳しい方ならご存知かも。でもスペイン語でtrickはtrucoとcが一つですしそれはトリックの意味しかありません。だから、このTRUCCOは何を意味するのか不明で、「ブランド」だと思うしかないようです。いずれにしろ、お化粧はトリックであると、ずばり言っているのはイタリア語だけのようで、この言葉だけでもイタリア語って奥深いと思いませんか?
caffèはイタリア語で「カッフェ」と呼びます。フランス語では「キャッフェ」(スペルはcafè)のような音になりますから、少し違います。また喫茶店などをキャフェ(またはカフェー)というのもフランス語で、イタリア語ではBAR(バール)と言います。caffeteria(カフェテリア)というのはイタリア語で、これはBARに近いですが、一般にはホテルなどにある朝食用の部屋のことです。
イタリアでcaffèというとそれはespressoのことで、他にも色々なコーヒーがあるので紹介しておきましょう。caffè lungo(ルンゴ)は薄めのコーヒー、caffè doppio(ドッピオ)はダブル、caffè stretto(ストレット) またはristretto(リストレット)は濃い目のコーヒー、caffè decaffeinato(デカッフェイナート)はカフェイン抜きのコーヒーですが、これはcaffè hagu(アグ)とも言います。caffè corretto(コレット)はリキュール入りのコーヒー、caffè macchiato(マッキアート)は、エスプレッソに少量のミルクを垂らしたコーヒー。
なおmacchiatoとは、「汚した」という意味。caffè をミルク(latte)で汚したとの意味です。latte macchiatoと言えば、逆にミルクに少量のcaffè を垂らしたものを言います。caffè amaro(アマーロ)またはcaffè liscio(リッショ)またはcaffè nero(ネーロ)は砂糖をいれない苦いコーヒー、caffè freddo(フレッド)アイスコーヒーなどがあります。caffè alla turca(アッラツルカ)はトルココーヒーで、これはイタリアにはふつうありませんが、ギリシアではよく飲みます。コーヒー豆がコーヒーの中に入ったままで、とても濃いコーヒーで、一緒に水がないと飲めません。
この言葉はご存じだろうか。これも面白い響きだと思います。意味は「可愛がる」という動詞ですね。Coccolo/coccola と言えば、可愛い子供の意味(男の子/女の子)になる。もっと可愛さを増すなら、coccolino(a)(コッコリーナ)となる。これを見ると思い出すのが、Cicciolina(チョチョリーナと読むが)というポルノ女優でありながら国家議員になった女性のこと。Cicciaは肉のことで、おでぶちゃんという意味で、ciccione(cicciona)(チッチョーネ、チッチョーナ)というが、これを使うと間違いなく嫌われるので、使わない方が良いでしょう。Cicciolinaも「肉」いう発想から出てきたものかと思うが、実はこのCicciolinaという女性はもともとイタリア人ではなく、イタリア人と結婚した後国籍を取って、国会議員になったらしい。そういうことで、こういう女優が国会議員になったことをイタリアらしいと特に気にしない人もいる。イタリアでも、単に名前が売れているだけという理由で国会議員になる人がいるのは、同じらしい。
Monteとは一般には山のことです。Monte Bianco (白い山)はモンブランのこと、Monte Rosa(モンテローザ)はピンク山という意味になります。Monte Rosaは、夕日に照らされた山を見ればその命名が解ります。ピンクか又は赤い山に見えます。Monte Biancoの方は、雪に覆われていることから来た名前でしょうね。一方イタリアの銀行に、Monte dei Paschi di Sienaという銀行があります。1472年の創業ということで、現存する世界一古い銀行ということだそうです。ここで言うMonteが何かというと、これは質屋のことです。正確にいうとMonte di pieta` とかMonte dei pegni と言い「抵当銀行」の様に訳されます。
要は、抵当を取って金を貸す商売で、所謂質屋にあたります。対象が貧しい人としたのも、日本の質屋と同じですね。Paschi di Sienaとは、シエーナの牧草地という意味で、もともと牧草地を所有していた人がこの質屋を始めたようですね。andare a monteという熟語があり、意味は台無しになる、破棄されるです。Dopo tre anni il loro matrimonio e` andato a monte.(3年後彼らの結婚は破局を迎えた)のように使うが、これも結局、質屋へ行くというのは経済的な破局を意味することから来たのでしょうかね。
フランス語からもひとつ:
イタリア語のついでにフランス語を学んでいると色々役に立つこともあります。「デジャヴ」と良く言いますが、なんのことやら?と思っていました。発音から、フランス語らしい感じはしますが、日本語だと「既視感」と訳されています。良く使われますが、「既視感」と言われてもピンとこない。そんな言葉はあまり聞いたことも使ったこともないからです。一体皆さんどういう意味で使っているのかな、とずっと思っていましたが、フランス語にありましたね。déjà-vu とは、イタリア語で言えば già-visto 英語ならalready-seen。「既に見た」という意味。しかし、デジャヴは、既視感=今まで経験したことのない新しい事件に出会った時に、以前に見たことがあるように感じる事、という意味だそうです。
フランス語は哲学的に出来ていて、「既に見た」が「既に見たような感覚」に変わるので、なかなか奥が深いですね(解りにくいと言う意味ですが)。2006年にこの題名の映画が作られて、それからこの言葉が一般的になったようですね。映画を見ていない人にはなかなか難しい外国語。でも、フランス語を勉強し始めた人にとっては、この言葉のお蔭で、voire(見る)の過去分詞がvuだということを覚えることが出来ます。
これは、イタリアに限らずどこの世界でも大事なものである。日本語では「コネ」と言って、これは恐らく英語から取ったものであろう。実はイタリア語のconnessioneにはそういう意味はない。イタリアでも「コネ」の意味で使う場合は、英語のconnectionを使う。では、イタリア語にはコネはないのか、そんなはずはない。イタリア語では、clientelismoという。直訳すれば、「顧客主義」だ。顧客主義は、日本では、お客様優先のビジネスのスタイルを指すものだが、イタリア語のclientelismoは、選挙の一票と引き換えに投票者に便宜を図ることを言う。従いコネというよりも、選挙違反に近い。
一方親類や知りあいに就職等の便宜を図ることは、favoritismoと言う。favore(好意)が変化した言葉である。先生が特定の生徒を「えこひいき」することなどもこれだ。特に就職などで親類縁者を優遇する事は、nipotismoという。この言葉は、nipote(甥、姪、孫)から来ている。イタリアの南北問題は、北には仕事があり南には仕事がないことからの格差問題の事でもあるが、南の人は親類縁者が力を持った人でなければ仕事にありつくことが難しい。かといって北へ出稼ぎへ行っても、仕事はあっても出世はまず望めないというのが実情だ。ある南イタリア出身のイタリア人は北の企業で部長の職に就いていたが、自分の場合は特別でこんな幸運は滅多にないと言っていた。彼自身も上司に対しては、平身低頭で何でも“Si, signore!”と答えるサラリーマンだったが、その状況を傍から見ていると、南の人が北で職を得るのが大変な事が実感でわかったものだ。
connectionとconnessioneは意味が違うと書いたが、これと同じような例が他にもある。例えばtestimonialeは証人とか証言の意味だが、testimonialと最後のeを省くと、代弁者、スポークスマンの意味となる。イタリア語はcuoreをcuor(またはcore, cor)、venireをvenirと最後のeをつけてもつけなくても意味が変わらないものだけでなく、このように意味が変わるものも
時間の流れは、人それぞれです。昔中国に仕事で何度も行き来している頃、恐らく日本の30年前がこんなんだったんじゃないかという建物や人々の服装や生活を見て、時間はここでは悠久な気がしたものです。イタリアを最初に訪問したのは1971年でした。それから28年後に再訪ししばらく住むことになりました。そして28年前に流されていたテレビ番組がまだあり、当時有名だったタレントがまだ出演しているのを見て、ここでも時間がゆっくり流れているのを感じました。
振り返ってみれば、それだけ日本が急いでいたのでしょう。町の風景が10年経てば様変わりするのが普通だと思っていたのが、中国でもイタリアでも風景はほとんど変わることはなかったのです。しかし、今中国は昔の面影を残さないほど急激に変化しています。逆に日本では、長寿番組は50年も続いているとか、なんだか日本での時間の流れがゆっくりになっているのではないかとも思えます。ゆっくりになっているというのは、世界レベルから見ると、時代に取り残されて行っているという事かも知れません。
昨年久しぶりにイタリアを訪問して、目的はベネツィアマラソンへの参加だったのですが、一番思ったのが、こちらはキャッシュレス社会だという事です。到着した日が運悪く交通機関のストライキ。空港から市内へ入るのに、ごく一部の電車が動いているのですが、切符が自動販売機のみでこれがクレジットカード払いのみ。私はクレジットカードはもっているものの、これまでサインで済ませてきたので暗唱番号なるものを知らない。結局そこで切符を手に入れるのに四苦八苦してしまいました。帰りの飛行機でたまたま隣に座った日本人のビジネスマンと話をしたら、彼は北欧を回ってイタリアへ行って今から帰国するところだが、今回の旅行で一度も両替をしていないという。つまり現金を持っていないと。
いやあ、驚きましたね。井の中の蛙とは俺のことを言うのか、と思いました。やはり日本にばかしいてはダメです。先日ソフトバンクの孫社長が言っていましたが、日本には彼の巨大ファンドが投資をする先がないと。AIのような先端技術にとても遅れていることを嘆いていました。いやあ、これは本当にひょっとしたら、日本は長期停滞に入っているのかも知れません。時間がゆっくり流れるのは良いのかどうか、まあ私は嫌いではありませんがね。スローはイタリアが得意です。町の中でイタリア人が走るのを見たことはありません。一度だけトリノで泥棒を追っかけているのを見ただけ。エスカレータを歩いて上るなど考えられません。少なくとも20年前まではそうでした。
そういえばスローフードはイタリアで発祥しました。ファーストフードに対抗して、食事をゆっくり楽しむ生活を推奨したものでしょう。ARCI GOLA(アルチゴーラ)という美食の会から始まったものです。ARCIは最先端、究極のという意味でGOLAは「喉」のことです。最高の味を楽しむ、といった意味を込めているものと思われます。golosoという単語がありますが、これもgolaから派生したもので、健啖家つまりグルメの事です。
昔学生時代にイタリア語の通訳でバイトをしたことがあります。最初は全くのダメ学生だった頃、何かのコンベンション会場で、特にやることはなくただ何か聞かれたら答えれば良い、という程度のお仕事。「何も聞かれなければいいな」と、冷や冷やしながらやっていた思い出があります。覚えていることは、イタリア人のお年寄りがタクシーに乗りたいという事で案内してタクシーに乗せた後、急に騒ぎ始めた。何だと聞いたら、「料金はいくらだ」と、多分心配になったのだろう。いやそれは、このメーターを見ればよいと言いたかったのだが、メーターが分からない。何とか手で指して理解してもらったものの、こういう名詞が分からないのですね。のちにイタリアへ行って、macchinetta(小さい機械、機器)と言えばいいと知りましたが。
イタリアに1年程行って帰ってきてから今度は通訳の仕事をやりました。ある商社のお手伝いで、技術関係の通訳でした。イタリアは食べ物とか、ワインやチーズなどの農産物かファッション製品ばかしで、工業製品はないと思っている人もいるが、実は工作機械やヘリコプターとか拳銃などちょっと変わったところで、世界レベルの技術を持っているそうです。勿論車も知られていますが。そういう訳で、私の仕事は工作機械の技術者の通訳ということです。実は、日常会話はそれほど困らないとは思っていたものの、機械などの専門用語はからきし駄目ですので、通用するかどうか自信はありませんでしたが、商社の方が分かる範囲で通訳してくれたらよいと。本式の通訳は高いからそこまで貴方に期待していないから大丈夫、とか言われて安心して引き受けた次第。この仕事は朝から夜の付き合いまでべったりでしたが、とても楽しく面白いお仕事でした。商社マンの優秀さと爽やかさも印象に残りました。
イタリア人の技術者は優秀な人で、作業中に工場の人に工具などを持ってくるように言うのですが、「今」というのを、最初はOraと言っていたのが(Oraは現状、現在、現代などの「今」)、そうだとなかなか工具が出てこないのが分かって、次にはAdesso(これも現在の意味からたった今の意味まで)というようになって、そのうち本当に今すぐ欲しい時には、Subito! と叫んでいたのを思い出します。その叫び方が伝わって、本当に「いますぐだ!」と言っているんだなと、工場の人も通訳せずにも納得してくれたようでした。会話は、勢いも大切ですね。ひと頃流行った「今でしょ」も、このうちどれでも通じますね。
これまでのエッセイから2年後に再び書き始めます。
「ああそんなんだイタリア語」を約2年ぶりに復活させることにしました。尚、今回からの内容は、私がイタリア語の単語について書いた「読んで楽しいイタリア語の話」(詳細はこの投稿の第一回目で紹介)の記事を、手直ししたり加えたりして、記事をご紹介するものとします。新しい記事もありますが、イタリア語の単語をベースにしたお話になります。
私もイタリアやイタリア語に関わって50年が優に過ぎました。最初は学生として、次に留学生として、そして企業からの駐在員として、イタリア語学校の代表として、その後は「ファッション用語のイタリア語会話」とか、「読んで楽しいイタリア語の話」「イタリア語のイディオム」「イタリア語のことわざ」などを本にしてきました。そういう経験から、面白そうな話題を書いて行きますので、よろしくお願いします。
復刻第一番は、
先日テレビを見ていたら、ある研究者の方が鳥の鳴き声の意味を研究されておられました。鳥は違った鳴き方をするので、何か意味があるのだろうという事で研究をされているのですが、その結果「ここに食べ物があるよ」とか「敵が来た」、「逃げろ」などという言葉(音)を聞き分けることが出来るそうです。見た方もいらっしゃるかと思います。人間は、喉、舌、唇などを使って音を出しますが、鳥や猿の声は基本的に喉だけを使って音を出します。イタリア語で言うならば、喉頭音とは、CならCa/Chi/Cu/Che/Co音です。Ce/Ciは口蓋音と言います。GはGa/Ghi/Gu/Ghe/Goが喉頭音、Ge/Giは口蓋音。それにQの音、Qua/Qui/Queなどです。カタカナで書けば、カキクケコ、ガギグゲゴ、クア・クイ・クエです。またHも喉頭音ですが、イタリア語ではご存知のように頭にくるHは発音しません。日本人はいとも軽く「ハ」と言いますが、イタリア人に「ハ」と言わせようとすると、喉から絞り出すような感じで「ハー」と言います。イタリア人はモーターバイクが大好きですが、YAMAHAは「ジャマア」HONDAは「オンダ」KAWASAKIは「カワサキ」ですが、フレンツェだとカキクケコの音が同じ喉頭音のハ行になるので、「ハワサヒ」と、何を言っているのか分かりません。ホンダのHを無理に発音しようとすると「ホンダ」と最初の音を出すのに声を絞ります。つまり、喉頭音と言うのは、結構力を使います。
さて、イタリア語でQuanto, Quando, Quale, Chi, Che, Cosa, Come は、疑問詞ですね。「どれほど」「何時」「どれ」「誰」「何」「何」「どのように」という意味です。つまりこれらは全て「喉頭音」から始まります。人が会話を始めるときには、まず疑問文から始めるでしょう。「誰だ、お前は?」「何処から来た?」「何をしている?」のようなことですね。つまり、最初に生まれた言葉は疑問詞で、それらはまだ舌や唇をうまく使えない頃に生まれた言葉なので、喉頭音だというのが、仮説です。(大げさな説を唱えるつもりはないので、「推測」にしておきましょう)。
一方、鳥や猿は、「カーカー」とか「クークー」、「キャッキャッ」と我々の耳では聞こえます。いずれにしろ喉頭音しか出せません(今のところは)。先に述べた鳥の声を研究している人の言を借りると、喉だけで「ここに食べ物がある」「敵が来たよ」「逃げろ」とかを表しているそうですから、彼らも相当進化(進歩)しているのではないかと思います。
勿論イタリア語だけで推測するのは無理があるので、ラテン語を調べてみると、「何」はqui、「誰」はquis(主格、男性、単数形)、「何時」はquando、「どの」はque、「何故」はcur、「どのように」はquomodo、「何処へ」はquoなので、こちらも「カキクケコ」音が中心です。ギリシア語はどうかと言うと、H音やP音で始まっているのが多いようです。Hは喉頭音ですが、Pは唇を使います。従い、3000~4000年前からある言語では、ある程度以上の仮説が成り立つのではないかと思っています。
英語は、大分後に生まれた言語ですが、Why, What, Who, Where, Whenのいわゆる5Wの疑問詞は、Wから始まっています。1H(How)は、確かにHから始まっていますが、英語は残念ながら、、と言いたいところですが、実はもともとは、Hwy, Hwat, Hwo, Hwere, Hwenと書いていて、13世紀にHとWが入れ替わったという事が分かりました。つまり、全てHの喉頭音です。そういえば、Whyと書いてホワイ、Whoと書いてフーですから、読み方はH~の読み方です。ちなみに「ここに食べ物があるよ」の「ここ」も英語はhere、イタリア語はqui/qua ですから、なんとなく合っているじゃありませんか?
ジャパンは、マルコポーロが日本のことを東方見聞録の中で「ジパング」と呼んで、それが英語になってJapanになったというのが定説の様である。では、Japanの前は、つまり英語の前はどうだったのか?Marco Poloは、当時のベネツィア共和国の人でイタリア人である。
以下本文(読んで楽しいイタリア語の話)からの引用*「彼が書いたとされる「東方見聞録」によれば、13世紀の日本は「黄金の国ジパング」と呼ばれていたとある。-中略ー Marco Polo自身は日本には来ておらず、伝え聞いた話のようだ。このジパングであるが、一説には中国が当時日本をそう呼んでいたということである。」**引用終了
さて、この先は本文では話が長いので、ここでは話を短くしよう。日本は、中国語のピンインでri-benと書く。これはカタカナでは表しにくいが、リーベンよりもジーベンに近い。勿論地方によってかなり発音は異なる。当時は元=今のモンゴル、が支配していた時代であり、マルコポーロさんは、日本のことを「ジーベン」だよと教えられたのであろう)。東方見聞録が発行されたのは、マルコさんが亡くなってから100年もあとのことで、しかもフランス語で発行されている。そうすると、イタリア人のマルコさんが中国で教わった日本という国が「ジーベン」だったとしても、ベネチアでは今でも語尾がN+母音の場合母音を省略する都市であるから、ジーベンはそのままジーベンかジーポン、またはジーパンとなり、フランス語ではジパンと呼ばれたと考えられる。今のフランス語ではジャポンである。この「ジパン」が日本という国だとして当方見聞録で紹介され、これが英語になってジャパンになったのである。では、ジパングの「グ」はなにかって? 中国語では「国」のことを「Guo」と言う。これは、カタカナで書くと「グオ」だが、まあ「グぉ」である。つまり、ジパングは、日本国のことである。こういう訳で、ジャパンは中国語からの派生であり、つまり中国語の読み方をイタリア~フランスを経由して英語にしたものだ。
付け加えれば、Koreaも「高麗」の中国語読みが英語になったという。さらに言えば、中国そのものも、昔の呼び名「支那」がフランス語読みのChine(シン)から英語読みでチャイナになったものである。
コロナ禍で検疫隔離が問題になっている。検疫のことは英語で、quarantineというが、見ればわかる通りこの中には40という数字が入っている。イタリア語のquarantaである。イタリア語で検疫隔離のことはquarantenaといい、40日間隔離したことに基づく。
「読んで楽しいイタリア語の話」を出版したころ(2016年)は、Pandemia の問題もなかったので、実際に検疫隔離が義務付けられていたのは動物くらいで、筆者がイタリアから愛犬を連れて帰って来た時には、愛犬には2週間の検疫隔離期間があった。体はでかいくせに臆病な愛犬は検疫隔離期間にあまり食事も口にせず大分痩せて釈放となった。ただ、日本は短い方で、欧州では当時は一般に犬には30日の検疫が必要で特に英国は厳しいと聞いていた。
日本では、昨年あたりは成田に帰国した日本人は強制的にホテルで隔離期間を過ごすことになっていたようだが、今は自主隔離ということで、一旦我が家に帰った後、外出を控える(しない)などが求められている。私の知り合いが昨年、ある感染者数が日本で少ない県のひとつから法事で東京へ来た。彼は一泊もしないで日帰りしたのだが、それでも家族から2週間自宅内監禁されたそうである。この県の人から見れば、東京は感染者がうじゃうじゃいると見られていたらしい。最近は、ワクチン接種が進み、ワクチン接種者は3日間の自主隔離などと、緩和策が取られてきているようだが、果たしてうまく行くのだろうか。これを書いている今、2021年11月初は確かに感染者が減少している時ではあるのだが、、、。隔離期間が違ったら、40日でなかったら、言葉(quarantena)も変わっていたのだろう。
イタリア語をやる人は、名詞に性と数があることを常に気を付けなければならない。イタリア人はそんなことに気をつけなくても身についているから気にしないが、日本語にはそんなもの無いので、これが結構大変である。英語なら複数はSをつければ良いが、イタリア語はそういう訳にはいかない。
今日は、国名の性の話である。これは、「読んで楽しいイタリア語の話」にも勿論書いている。国の名前は、ほとんどが女性形である。考えるに、国と認めた国名は女性形だと考えられるのに、何故日本は男性形なのかを考えてみる。女性形の国を挙げると、ヨーロッパの国、Italia,Francia,Germania,Inghiterra,Svezia,Russia,Spagniaなど全て-aで終わり女性形の国である。アジアも、Cina, India, Corea,Mongolia,Indonesiaなど-aで終わる女性形の国は続く。Filippineは複数形で女性形である。さて、男性形の名前の国を挙げてみよう。アジアでは、Vietnam, Sri Lankaは男性形。ヨーロッパでは、Belgio, Portogalloが男性形。南米のBrasil, Cile, Peru‘は男性形。Egittoも男性形である。Gli Stati Uniti(アメリカ合衆国)も男性形であるが、これはStatoを使っているからで、Americaなら女性形である。これから書くことは推論に過ぎないが、まず国として認めた国名は全て-aで終わるようにしたのではないかという事がまず推論出来る。従いaで終わっている国は問題なく女性形である(Sri Lankaを除くが)。日本はイタリア語に現れたときに、島とか場所(地方)としての認識しかなかったのだろう。他の国を見ると、Portogalloは、「雄鶏の港」の意味で、国との認識はない。Egittoはもともと Arabia国の一部で20世紀に成立した国である。Belgioも19世紀に独立した国でもともとはオランダの一部。Brasilは1500年以降にポルトガル人が入植し、この国で蘇芳に似た木を見つけた。それで蘇芳(=Brasil)という名前を付けた。つまり、もともとは木の名前である。それぞれ、つけた名前が男性形だったので国名が男性形になったが、もともとは場所とか、植物の名前だったのである。日本はgiapponeという場所との認識から男性形になったのではないだろうか。giapponaと命名しても良かったのかも知れないが、イタリア語には語感からか語尾が-onaという単語がない(多分)。stazione(駅)、stagione(季節)、salone(居間)、giaccone(ブルゾン)、pantalone(パンタロン)などを見ても、-oneである。従い、残念ながらgiapponeとなり、男性形になった。イタリア人に何故日本は男性形か聞くと、日本は男性的な国だからだろう、などと言ってくれるので、男性形であることも捨てたものではないかも知れない。
どういう約束事になっているのか知らないが、日本では欧米の地名は概ねその国の発音に従うようだ。ドイツのミュンヘンやフランクフルト、イタリアのミラノやナポリ(但し、ヴェニスやフローレンスは英語読み。ヴェネツィアとかフィレンツェとも言われるが、英語読みの方が多いだろうか)、フランスのパリやスエーデンのストックホルムやエーテボリなど。一方中国は日本語の漢字読み(ペキン、ナンキン、ジュウケイ)と中国語読み(シャンハイ、カントン)が混在している。台湾の台北を先日NHKでタイホクと呼んでいたが、これなどはタイペイが既に一般的なのではないかと思うし、タイホクと言われるとなんだか時代錯誤的な呼び方のような気がしないでもない。韓国も最近ではソウルやプサンと呼んでいる。
さて、話はイタリア語に入るがイタリア語は、他の国の地名は基本イタリア語で呼ぶ。とはいえ、全ての都市名にイタリア語があるわけではなく、主要都市のみである。従い概ね英語圏なら英語読みで通じる。しかし、慣行でイタリア語読みのところも多くなる。例を挙げる。ミュンヘンはManaco di Bavieraと言い、Monaco公国と間違い安い。フランクフルトはfrancoforteで意味は自由の要塞である。スコットランドのEdinburgh(エジンバラ)は、Edimburgoになり、burgoはborgoの事で「森」を意味する。オーストリアのザルツブルグはSalisburgoとなり、勿論「Salisの森」である。
その他ドイツの有名な地名をイタリア語で言うと下記のようになる。Hamburg(ハンブルグ)=Amburgo、 Koln(ケルン) =Colonia、Leipzig(ライプツィッヒ)=Lipsia、Mainz(マインツ)=Magonza、Stuttgart(シュトットガルト)=Stoccarda、そして黒い森として有名なSchuwarzvaldはイタリア語では、Foresta Neraとなっている。小さい町や最近イタリアで知られた町などは、ドイツ語をそのまま使う。ドイツ語も然りで、以前ある人がドイツ経由でミラノへ行った時に、乗り換え掲示板をいくら探してもMilano(またはMilan)がない。色々尋ねて、ドイツ語ではミラノのことをMailandというのが分かってやっと、乗り換えに成功したという。イタリアからミュンヘンに行く場合は、Monacoとなっているので、どちらのモナコが確認しておいた方が良いだろう。
フランスの地名も書いておこう。Paris=Parigi、Lyon=Lioneここらはまだ分かりやすい。Marsiglia(マルセイユ)、Nizza(ニース)、Tolosa(ツールーズ)も覚えておいた方が無難だろう。フランスも全ての町名にイタリア語読みがあるわけではない。スペインは、見れば大体わかるが、読み方に注意が必要である。Barcellona(バルセロナだが、イタリア語ではバルチェッローナ*スペルも少し違うので注意)。cの音に注意が必要(Valenciaなど)。イギリスはどうだろうか。Londra(ロンドン)、Edimburgo(エジンバラ)くらいがイタリア語で、他はほとんど原名(Liverpool, Manchester, Oxford等)を使う。他特に注意する地名のみを上げておく。Mosca(モスクワ)、Anversa(アントワープ)、Vienna(ウイーン)、Losanna(ローザンヌ)、Zurigo(チューリヒ)、Stoccolma(ストックホルム)、Gotemburgo(ヨーテボリ)。尚、アジアの地名は大体そのままである。Shanghai(シャンガイと読む)、Pekino(ペキーノ)。東京にはTokioというイタリア語があるが、Tokyoでも構わない。
イタリア語を知っている人は分かるが、英語の9月Septemberは、イタリア語ではSettembreという。以降 Octoberはottobre, novemberはnovembre, decemberはdicembreである。イタリア語では、sette-otto-nove-dieciと言えば、7-8-9-10という数字なので、これらはそれぞれ、7月8月9月10月である。しかし、何故これが9月10月11月12月なのか?これの説明については、「読んで楽しいイタリア語の話」から引用する。もし知らなかったとしたら、これはトリビアになるかもしれません。ちなみにトリビアはtriviaというラテン語で、三叉路のこと。意味は何処にでもあるという意味で、誰でも知っている知識とか、くだらない知識のことである。転じて「豆知識」の意味でも使われるようだ。イタリア語でtrivialeという形容詞は、「俗っぽい、粗野な、下品な、陳腐な」という意味であまり尊敬した意味にはならない。英語だとtrivialで大体イタリア語と同じ意味である。派生語でtrifleもあるが、似たような意味である。つまりtriviaとは、くだらない知識である。
さて何故7月が9月なのか?これは、昔のローマ暦では、1年が10ケ月(304日)しかなく、年の始まりが現在の3月だったことによる。つまり3月が第一番目の月で、7番目の月が9月だったわけです。答えは簡単ですが、その間に色々変化もありました。現在の7月と8月、これはもともと5月と6月だったわけですが、ローマ帝国のシーザーそして初代皇帝のアウグストス(イタリア語名Augusto)の時に、7月はLuglio, 8月はAgostoと変えられました。7月のLuglioは、Giulio Cesare(ジュリアス・シーザー)の事です。そして1年も12ケ月に変えられました。これがユリウス暦です。
何故それまで一年が304日(10ケ月)だったのでしょうか?一年が365日で4年に一回のうるう年を設けることは、古代エジプトでも既に知られていたと言われています。勝手に想像すると、当時の冬は寒いので、現在の1~2月の期間(61日)を単に「冬」とかなんとか言っていたのかも知れませんね。それはどうか分かりませんが、どうも月としてカウントしていなかったようです。そしてこの「冬」だかなんだかの間に、足りない分を4年に一度調整していたようです。ちなみにうるう年はイタリア語では、anno bisestileと言いますが、bisestoとは2月29日のことを言い、古語では「4年間」という意味もあったようです。英語では、leap year と言い「跳ぶ年」となって、特に意味はないようです。日本語は漢字では「閏年」と書き中国語と同じです。尚、うるう年には色々決まりがあって、2100年、2200年、2300年はうるう年でなく、2000年と2400年はうるう年です。現代の人で見てみると、1901年以降に生まれた人は、2100年まで生きないと、うるう年でない年を経験することはありません。うるう年は、①4年に一度②しかし100年に一度はうるう年でない③しかし400年に一度はうるう年である。という決まりです。つまり昭和生まれに限ると、4年に一度必ずうるう年を経験しているという事になります。平成生まれは、頑張って2100年まで生きると、一日少ないために一歳余計に生きることが出来るかも知れませんね。
さて、12ケ月に変更した時(ユリウス暦にしたとき)に、最初の月をgennaioと名付けました。これはローマ神話のGianoという神の名で、ドア(入口)の神様です。2月のfebbraioはfebruareから来ています。この意味は、「魂を清める」「慰霊する」「贖罪する」月という意味になります。もともと3月から1年が始まっていましたから、この月に全てを贖罪し新たな1年を迎えようとしたのでしょう。日本の除夜の鐘の考え方に似ていますね。そして、何故2月がうるう年になったのかもわかりますね。一年の最後の月でしたから、最後の月に調整しようとしたのです。
Giapponeのことを先の触れたので、しかも2回も、やはりgiapponeseについても触れておきたい。これも「読んで楽しいイタリア語」が出典である。テーマは、何故英語で日本人は、Japaneseなんだろう?という疑問から発する。つまり、英語だとItalian, Canadian, American, Mexican, German, Korean, Brasilian, Australian, Russianのような-nで終わる語感や、Frenchman, Englishmanのような-manをつける呼び方、Swiss, Dane, Swede, Dutch, Thaiなど短く終わる呼び方などある中で、JapaneseとChineseが-neseで終わる。 Vietnamese は近いが-meseで終わり、portugueseはgueseとなる。
実は、英語では少数派だがイタリア語では -eseは多数派に属する。日本人中国人はそれぞれ、giapponese, cineseであり英語と同じ語尾となる。 似ているがちょっと違うベトナム人はvietnamitaと全く異なる。更に上記の中で、カナダ人canadese, フランス人francese, イギリス人inglese, デンマーク人danese, スエーデン人svedese, オランダ人olandese、そしてポルトガル人portogheseなどもイタリア語では -eseの仲間になり、-eseが主流を占めることがお分かりだろう。もう一つの主流派は、-anoである。italiano, americano, messicano, coreano,brasiliano,などとなる。
英語だと、日本人と中国人しか-neseがないためか(他にもあるかもしれないが)、昔私の友人がアメリカに留学しているときに、Which ‘ese’ are you? 「フイッチーズアーユー?」 と聞かれたという。この話を聞いた時に、大変失礼な聞き方じゃないかと思ったものだが、英語(特に米語)には人を馬鹿にしたような言い方が五万とあるので、その中の一つで、深く考えないで使うのだろうと思うのだが。私の仕事の一環として、英語のスラングと併せてイタリア語のスラングなどを集めたりしているが、日本語も英語もわかるイタリア人が言うには、イタリアにはスラングと言うか汚い言葉が沢山あって、日本語にはあまりないと言う(?そうだろうか)。しかし英語にはとてもじゃないが叶わないと言う。特に米語は汚いスラング目白押しで、イタリア人もびっくりらしい。
日本人が英語を勉強するときには、この想像以上に沢山あるスラングをも理解しなければならない。まあ、スラングまで行かなくても、20000語ほどの単語を覚えないと、英語ネイティブと対等には話せないことから、私は個人的には、文法を一通り覚えたら後は単語力が勝負になると思うので、現在の語彙力2000の人も5000の人もあと10000を上乗せする必要があり、是非そのお手伝いをしたいと思っている。10000を5年で覚える(10000覚えなくとも、努力することで5000は記憶に残る)には、年に2000、週に40新しい単語に接する必要がある。
話がそれたが、英語は勿論ラテン語やイタリア語から見たら、大分後に形づくられた言語だが、イタリア語をそのまま踏襲しないで、~anとか~sh(Irishなど)とかにしたのは何故なのか? 多分その方が語感が良かったのでしょうね。日本はイタリア語(ラテン語系)のままJapaneseになった。何故なら、だれも異議を唱えなかったから。程度の事じゃなかったのでしょうか。まあ、もう慣れたからいいですね。
このコラムを書く理由は次のようなものである。
イタリア語に隠された歴史や背景、それに関する私個人の考察をまとめるため。
イタリア語を学習する人に、もっと興味を持ってもらうため。
自分が50年以上付き合って来たイタリアとイタリア語の話が何か参考になればと思って。
単語は語学学習では、実は大変重要。特に日本人には。だから、少しでも語彙を増やして貰いたいと思い。
まあ、ちょっと考えてみましたが(3分ほどでここまで書いてきたので大して考えたわけではない)なかなか一言では難しいので、まとまりなく何行も書いてしまいました。そうかもしれないし、そうでないかも知れない。まあ、色々仮定してみたわけです。
今日の話題はこの「仮定」です。イタリア人は、良く仮定します。多分日本人よりも多く物事を仮定します。その時にIPOTESIという言葉を使います。意味は「仮定」「仮説」です。ipotesiは、日本語で「こうしたらどうだろう?」とか「もし~したとしたら」のような、例え話に使う言葉です。ビジネスの場でも良くこの言葉が出て来ました。「それを買ったとして、私にどういう得があるのか」など。私はイタリアとのビジネスでは、買う方の立場だったので、「価格を貴方の希望値にしたとして(したと仮定して)、一体どれくらいの数量をお買いになる積りですか?」のような会話だったかも知れない。それほど頻繁に使われるわけでもないが、日本語ではなかなか表現しない言い方なので、記憶に残っている。是非使って見て下さい。イタリア的表現を良くご存知ですね、と言われるかも知れません。
ipotesiという言葉の代わりに、supporre(仮定する=動詞)を使う事も出来ます。Suppongo che + 接続法。~だと私は仮定します=~のようだね。ipotesiと共に、Suppongo, per ipotesi, che ~。とも言います。大体同じような意味です。
尚、アクセントは「イポーテジ」のように、poの上にアクセントがあります。
さて、これから先は「読んで楽しいイタリア語」に書いた、ipotesiの話です。
「私は、日本人は中国語、イタリア語、英語の3つのライン上で外国語を学んだ方が良いというipotesiを上げる。日本語は中国から伝わった言語に、日本独特のひらがなを加え、作られていった。しかし、儒教の教えを主とした教理が根強く、明治維新まで漢語の学習は怠らなかった。江戸時代の鎖国の結果、ヨーロッパはオランダからのみ文化の流入があり、オランダ語の学習も進んだが、当時訳された医学書などの文献は、オランダ語からまず漢文に訳されたのだ。
日本語は中国語と、文字そして音がやや似ているが、構文が異なるので、漢文にする方が楽だったのだろう。中国語と漢文は大分異なるらしいが、構文については基本が変わらないので、中国語が出来なくとも漢文が出来れば、単語を調べてオランダ語の本は読めた。幕末の知識人みな漢語が出来たので、明治になってこれからは漢文ではなく英語だという時代になっても、単語さえ分かれば本は読めた。福沢諭吉翁などが海外へ行って本を買いあさり、急いで日英対訳の辞書を作ったのも、単語さえ当て嵌めていけば文章が読めたからである。恐らく発音は相当ひどかっただろうし、聞き取りも出来なかっただろう。が、自分の意思を伝えることはしたのではないだろうか。
言語の基本は、相手に言いたいことを伝えることなのであるから、これが一番重要なのだ。翻って、今日日本では漢文の学習は殆どない、そして突然日本語から英語である。この2者は日本語も含めた4つの言語ラインの両極にあるのだ。しかも学習方法が英語→日本語という方向性が主流(大多数)である。」
日本語と中国語は文字が同じで音もやや似ているところがある(実際には中国語の発音はとても難しい)。日本語とイタリア語は、単語が母音で終わり、且つ音素の数が近いため聞き取ることが出来る。これに対し、英語は、文字も、音も、構文も、そして単語も全て違うのであるから、日本語から英語を学ぶのは、一足飛びにピアノならラフマニノフを弾いたり、体操ならH難度を、スケートなら4回転を、もっと近い話題で言うとプログラミング言語ならHTMLもCSSもやらないで、JAVAやPYTHONやもっと難しいものを学ぶようなものだ。
ということで、「日本人はまず中国語とイタリア語を学んでから英語を学ぶのはどうだろう?」という仮説を上げておきます。
ただ、最近は私は英語の学習方法としては、まず文法(基本文法と構文)を学んだら、次は単語の学習をするべきだという仮説に立っている。聞き取りや会話は慣れれば出来る。それよりも先に、単語を知らないと、言っていることが分からないではないか。勿論単語だけでは分からないが、文法と構文を理解してれば、単語が分かれば意味は大体わかるものだからである。日本人の英語の語彙力3000とか5000では、100%理解する為の15%~25%に過ぎず、これではついていけないのも無理はない、と思うからです。
逆に英語やイタリア語にはあるが日本語にはない、といった言葉がある。また言葉はあっても、意味が違うこともある。こういうのは覚えにくい単語や表現の一つだろう。まず、意味が違うものを上げると、例えば「おかず」や「主食」は、単語はあっても意味が少し違う。日本語では、肉や魚はおかずで、主食はご飯、つまり米である。しかし、英語やイタリア語のmain dish(=主食)は、決してrice/risoではなく、肉や魚になる。
orange(arancia)色といえば、日本ではオレンジの色だが、三毛猫の茶色のことを海外ではオレンジ色だという事がある。茶色の猫は、orange catである。まあ、ただ日本語でも茶色とは茶の色という意味だろうが、日本茶はグリーンであるから、この茶色も不思議だ。ちなみに中国語では茶色とは言わない(また、外国の茶は紅茶だから、大丈夫かも知れないが)。日本では、交通信号の青を青というが、あれはどう見てもグリーンだ。ただ、緑とかいて「あお」と読ませたりもするので、この色については、相当許容範囲が広い。
日本にあってイタリア語にないものの一つが、孫や甥姪を表す言葉である。いや正確にいえば、イタリア語にもnipoteという言葉がある。しかし、孫も甥も姪も全部nipoteひとつである。つまり、孫と甥姪の区別がない。他にも会話に限って言うと、兄と弟や姉と妹の区別もあまりない。普通会話の時には、my sister とかmio fratello のように younger sisterとか fratello maggiore などと特に区別するとき以外は、あまり言わない。日本語なら私の兄弟が~というようなものだろう。実際日本語でも姉妹と書いて「きょうだい」とも読ませるので、この場合は年齢の上下も性別もなく話すことになるので、英語やイタリア語よりももっとあいまいかも知れない。
life(イタリア語vita)もそうである。life もvitaも「生活」「人生」「一生」という意味がある。しかし日本人にとって、「生活」と「人生」は違うものである。しかし、欧米人にとっては、同じものなのだろうか、一つの単語しかない。
こういうことを調べると面白いが、実はキリがない。日本人が外国語を勉強するときに、一番問題になるのは単語であることは、何度も述べて来た。まず学習語彙があまりにも少なすぎる事。そして、一つの単語を覚えても、その意味を一つしか知らないのでは、知ったことにならないことが多い。一つだけ例を挙げると、イタリア語にmacchinaという単語がある。英語では、machineであり、意味は「機械」である。しかし、macchinaには他の意味もある。①自動車②タイプライター③機構 macchina dello Stato=国家機構 ④陰謀⑤舞台装置⑥(詩)の構成⑦自動車レースなどの車間距離などである(以上小学館の辞書より)これ以外にもまだ意味はあるが省略した。つまり、もともと「機械」であるmacchinaに「自動車」の意味があるが、日本語には機械=自動車はない。これが語学学習を難しくしているともいえる。まあ、ただ同じことは逆(日本語の訳)にもあり得るわけで、外国人が日本語を学習する際の難しさとも共通する。従い、これは日本人だけの問題ではない。ただし、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、その他欧米言語には共通点が多いので、彼らが相互に言語を学習するには大きなアドバンテージがある。machine(英語)にも、上記にあげたmacchina(イタリア語)全ての意味のの半分くらいは共通するようだ。
nipoteに話題を戻すと、E` mio nipote. と言っても、それは孫か甥かはわからない。イタリアは大家族主義なので、一家が集まるとする。親子3代が集まるとする(一代、二代、三代と呼ぶ)と、一代から見れば三代はみなnipote(孫)である。二代から見て、兄弟の子供が甥姪になるが、一代から見れば同じ孫。そういうことから、孫も甥姪もnipoteになった(そうである)。ちなみに、ひ孫もその下の玄孫(やしゃご)も一様にpronipoteというらしい。かくして、一家が4代、5代と集まれば、nipoteで一杯になる。
外国語を勉強するときに、日本語しか知らない場合にはある種の感覚を身につける必要がある。その一つが、イタリア語の場合は性と数である。つまり、単語にはすべて性別があり、単数と複数では表現が異なるということだ。英語には複数にはSをつけるという決まりがあるが、単語に性別はない。日本語には勿論どちらもない。複数には「たち」「ども」「等」などをつけるが、これも人称代名詞「私たち」「あなたたち」「彼ら」「私ども」などは必須だが、ものやことには普通はつけない。本は本だし、本たちとは言わない。また人称代名詞の複数形は英語でもイタリア語でも単語自体が変わり、Sをつけたり語尾を変えたりするわけではないので、「人称代名詞以外の名詞は単数と複数を語尾を変化させて区別する」と言えるだろう。
イタリア語を勉強した方はご存じだろうが、名詞の性については結構厄介である。基本的に語尾がoで終われば男性名詞、語尾がaで終われば女性名詞であるが、eで終わる場合は男性名詞か女性名詞かを知っていなければならない。また男性名詞の複数はiで終り、女性名詞の複数はeで終わる。イタリア語は基本的に母音で終わるが、uで終わる単語は少ない。勿論例外も沢山ある。取り敢えず、単語の性別を覚えたとしても、文章にする場合に厄介な問題がある。形容詞をつける場合、形容詞の語尾が名詞の性と数に一致しなければならない。例えば、nuovo(新しい)という形容詞を使う場合、vestito nuovo(新しい服)、vestiti nuovi(新しい複数の服)、cravatta nuova(新しいネクタイ)、cravatte nuove(新しい複数のネクタイ)となる。イタリア語(ラテン系言語)は、形容詞は名詞の後について修飾するが、それは先に性数の主体となる名詞が出ないと、形容詞がつけられないからである。イタリア語やフランス語の形容詞が名詞の後に来るのを不思議がる人もいるかと思うが、これはこれでうまく出来ているのだ。
しかし、それでも厄介なことがある。指示代名詞のように、一番先に使うQuesto(これ)やQuello(あれ)の場合は、まず何を言おうとしているのか頭で考えて、名詞の前に名詞に合わせて変化させて使わねばならない。これが、女性名詞で複数形なら、Questeと先に言ってから、sono le mie scarpe. のように続けねばならない。意味は「これら(これ)は私の靴である。」尚、この例であげたように、所有形容詞(私の、あなたの、など)や指示形容詞(あの、この)などは形容詞であっても名詞の前に付けるし、形容詞の中でも習慣的に名詞の前に付けることが多いものもある(bello, buonoなど)ので、頭の中は性数でフル回転していなければならない。
イタリア語を学ぶ場合には、この感覚が必要であると思うのである。筆者自身についていえば、3年から5年くらいかかっただろうか。つまり、あらゆる名詞を性別で考えるようになるのに。多分複数の方は、英語で多少は慣れていたかも知れないが、、、。多分一番厄介なのは、代名詞である。lo la li le の直接目的語になる代名詞を使う場合は、基本的にそれが、男性か女性か、単数か複数か、頭の中で理解していないと使えない。大変面倒くさいと思うが、これもある程度は慣れる。ただ、日本語で話している頭を多分ちょっとだけイタリア語モードに変える必要はあるのではないかと思う。大分前にイタリアでイタリア在住20年くらいでイタリア人と結婚している人が、日本語で話しながらも何かの拍子で、”Eccolo!”と仰った。これですね。やはり、頭がイタリアモードでさっと出て来るっていうのは、と思いましたね。Eccolo, Eccola, Eccoli, Eccole.もちろん全てありますからね。Eccomi!もあります。
現在ワールドカップ2022に向けてのアジア予選が行われています。この項を書いている現在日本は6試合で4勝2敗、グループBで2位につけており、なんとか最終予選への突破圏内には入っています。これまでの6試合を見ると、最初から順に 0-1,1-0,0-1,2-1,1-0,1-0と6試合での得点がわずか5点、全ての試合が一点差で、得点を入れない代わりに、入れられてもいない。こういうサッカーの試合のことをCATENACCIO(カテナッチョ)と言います。catenaとは鎖、チェーンのことで、catenaccioはドアの掛金などのこと。転じて、「守りの試合」「守備固め」の勝ち方や、作戦のことを言います。日本の試合を見てください。得点は0-1-0-2-1-1ですから、まさしくcatenaccioです。見ていてはハラハラドキドキ、イライラする試合ですね。実は嘗てのイタリアがそうでした。いや、イタリアは今でもcatenaccioが主流かも知れません。守りのチームがイタリアの代名詞のようなものです。これで、ワールドカップ優勝4回と、一位ブラジルの5回に続く優勝回数を誇ります(優勝4回にはドイツも入ります)。
日本もcatenaccio国になったのでしょうか?どちらかと言うと、得点力がない分を守りでしのいでいるという感じですから、得点力が欲しいというところでしょうね。ただ、イタリア人も言いますが、catenaccioは面白くないことは確かですね。先日、高校サッカーの地方の決勝戦をテレビで見ました。どちらも強豪校で、全国大会で優勝してもおかしくないチームです。この試合は実に面白かったですね。攻撃につぐ攻撃です。ボールを戻して、ぐるぐる回して、相手の隙をついて一気に攻める積りで逆にパスミスでボールを取られるようなことはしません。こういう攻撃的な試合のことは、champagneと言います。シャンパンのことですが、多分シャンパンでも飲んで騒いでいるような派手な試合という意味だと思いますが。
そういえば、1989年まだあまりサッカーに興味がなかった私はイタリアに住むことになり、テレビをつけて何気なくサッカーを見ていて、その面白さに惹かれました。日本のサッカーを見ていて面白くなかったのは、はっきり言ってそのスピードにありました。当時日本はJリーグを作ろうとしていた時期でまだプロのサッカーチームはありませんでした(Jリーグは1991年発足)。つまり、全くスピードが違ったのです。しかも当時はあのマラドーナがナポリで大活躍していた時期です。ナポリの試合はほとんど彼一人で勝っているみたいで、その頃優勝したのは、誰がなんと言おうとマラドーナ一人の力だ(とは言わないでしょうが)という感じでした。
最近大谷選手の活躍がすごいですが、ベーブルースを比較して、数字だけ見てベーブルースを越えるとか言う人がいますが、その人がベーブルースを実際に見てそう言っているのであれば納得ですが、数字だけでは表せないと思いますね。その人のすごさは実際に見てみないと分からない。そういう意味では、マラドーナは私はテレビでしか見ていないけれど、凄かった。ペレについては試合を見てないので、その凄さは分からないですが。今では、日本も世界ランク28位まで上がっていますから、相当個人のレベルも上がったのでしょうが、当時は動きが遅かったのではないかと思います。
イタリアの「カテナッチョ」については、有名で色々研究している人もいるようなので、興味のある方は検索して調べてみてください。ワールドカップ予選はいずれにしろあと4試合、catenaccioであろうと、champagneであろうと、勝って欲しいと思いますね。catenaccioでは、勝てないちょ!なんてダジャレが聞こえてくるような気もしますが、、、。
を述べてみたいと思います。日本語の勉強はあまりしたことがないので、文法的なことは実はよくわからない。これを逆に見るとつまり、文法など知らなくても言葉は話せるという考えで、これを外国語学習にそのまま当てはめようとする学習方法が結構好まれているようだが、結果的にこの方法では外国語は習得出来ない。その国に長く住んでいるとか、幼児の頃から母語と同じように外国語に触れていない限り無理である。大人になって(少なくとも中学以上)文法の学習をせずに、英語をうまく話すように見える人はハロー、ハワユ―、ワンダフォー、アッポー、パイナッポーの領域を超えることはない。
しかし、英語やイタリア語については文法を勉強したので、日本語よりは分かる。アメリカ人やイギリス人の語学の先生に文法のことを聞くのは野暮である。まずほとんど知らない。但し、大学で言語学を勉強した人や、とても熱心な講師で予め英語の文法を勉強した来た人は別である。もし嘘だと思うなら、あなたの英語の先生に、He plays the guitar. のsは何だと聞いてみてください。勿論、これを知らないからと言ってその先生の価値が下がるわけではありません。日本人のあなたは、例えば「私は」と「私が」の違いをきちんと説明できますか? 彼らだって、学校やお母さんに単数の時はsをつけるんですよ、として教わったくらいですから。三単現のSなんていう「文法用語」は外国人(日本)用に作られたようなものですから。
さて、話が横道にそれたままにならないように本題に戻ります。今日は、時制が表す意味を述べたいと思います。日本語では、過去は過去、現在は現在です。あと、未来形は日本語にはないので、基本は現在形で表します。一方イタリア語には、過去形の中にも、近過去、半過去、遠過去、大過去、条件法過去、接続法過去、接続法半過去、接続法大過去と過去だけでもこんなにある。一方英語は現在完了、過去、大過去くらいである。
イタリア語の近過去はpassato prossimoといい、大過去はtrapassato prossimoである。prossimoは「近くの」という意味があるので、passato prossimoは近過去と訳されたのだろう。trapassatoは過去の過去のことなので、trapassato prossimoは「近くの過去の過去」の意味だが、それを大過去(または先立過去)と名付けたのは、まあそんなところだろう。一方半過去のイタリア語は、”imperfetto”というが、これは「未完の」「不完全な」という意味で、「半分」という意味はない。無理やり未完=半分完成のとして、半過去としたのだろうが、半過去では良く意味が分からない。
一方英語の方を見ると、現在完了はpresent perfect という。意味は「完全な現在」である。何故、完全な現在というのだろう? 現在完了は実に難しい。私たちが中学の頃現在完了は、「終わってすぐ」の行為だと教えられた。しかし、これは完全に間違っていることが分かった。現在完了形には3つの使い方があり、一つは「現在までの経験」である。I have been to Mexico City. は、「私はメキシコシティへ行ったことがある」という経験を表す。次は、「現在までの動作や状態の継続」である。They have been married for five years. は「彼らは結婚して5年になる」で、5年前から今まで結婚している、ということだ。もう一つは、「現在に結果を見ることが出来る過去の動作」である。I have lost my wallet. は「私は財布をなくした」で、その中には、「まだ見つかっていない」という意味がある。もし失くしたが見つかったのなら、過去形を使って、I lost my wallet, but I found it later.のように過去形を使って言わなければならない。
この「現在に結果を見ることが出来る~」という説明自体が分かりにくいが、これは、この用法自体が日本人にとってとても難しいことを表していると思う。中級以上の方は、この意味は理解出来ていると思うが、それ以下の方で現在完了形の使い方が分からない人は、まずこの日本語表現で戸惑う。もっと分かりやすい表現がないかと思うが、せいぜい「現在まで続く過去の動作」とか、解りやすいように上記のように「終わってすぐの行為」のようなことになるが、これは表現としては正しくはない。I have washed my car. は、私は車を洗った=だから車はピカピカである。という意味である。これに対し、I washed my car. は、今車がピカピカだとは言ってないのである。つまり、この現在完了形の使い方は、過去の行動の結果がまだ継続していることを暗に表しているのである。
イタリア語に戻ると、イタリア語の近過去が英語の現在完了になったものと思われるが、意味は全く異なる。イタリア語の近過去は今や英語の過去形である。遠過去と近過去に時制の違いはなく、感覚の違いだけである。大体、北イタリアでは遠過去は使わない。従い、イタリア語では、近過去を使ったからと言って、過去の行動の余韻が未だに続くような感じはない。また、英語の現在完了形の2番目の「現在までの経験」については、現在形を使う。例えば、Abito a Tokyo da 10 anni. 「東京に10年前から(今も)住んでいる」は、現在形を使う。従い、英語で私は東京に10年住んでいるを現在完了形ではなく現在形を使っていれば、それはイタリア人かも知れない。
長くなってきたので、ここで一旦切るが、時制が文章に大きな隠された意味を与える大きな用法は、条件法である。条件法過去を使って、Avrei voluto mangiare il pesce. と言えば、「私はその魚を食べたかった」という意味だが、隠された意味は「しかし食べなかったである」。もし、Volevo mangiare il pesce. だと、同じく「私はその魚を食べたかった」だが、食べたかどうかは言っていない。この条件法表現は、英語でも同じである。こういう風に、時制が持つ意味、これを習得すればかなり外国語の幅が広くなることだろう。それに、イタリア語にしろ英語にしろ、条件法の文章は丁寧な印象を与えるものなので、社交語としては大変重要である。イタリアの条件法や接続法については、改めて述べたいと思っています。